オラトリオは未来を奏でる
 〜ouverture  追憶の唄は夢に溶ける〜




 どこまでも続く暗い道を、一人で走っていた。

 いつからこうしているのかはわからない。どこまで行けばいいのかも。出口なんてどこにもないかもしれないのに、足を止めることは出来なかった。
 後ろの方からは僕を追いかけてくる複数の足音。あいつらに捕まっちゃいけない―――…。僕はただ、一人で逃げ続ける。
「……っ、うわっ!」
 ふいに、何かに足を取られた。バランスを崩した身体は簡単に傾いて、地面に打ち付けられる。生暖かい液体がびちゃりと跳ねて、顔を濡らした。
「って……」
 身体が痛い。息が苦しい。
 頭の中には恐怖が渦巻いていた。――早く立たなきゃ。そう思っているのに、身体の方は、まるで地面に縫い付けられてしまったかのように動かない。
 足音が近づいてくる。足が重い。顔を上げた視線の先に、小さな光を見た様な気がして―――…
 あたりに銃声が響いた。
 同時に、真っ暗だった空間が光を取り戻す。
 僕は、自分の家のリビングに倒れていた。

 周囲には薄く尾を引く硝煙と錆びた鉄の様なにおいが充満していた。いつの間に追いつかれたのか、見知らぬ男たちが僕を囲む。粘り気のある笑い声はじわじわと頭の中まで浸食してくる様で……ひどく、不快だった。
 身体を起こそうとして、僕はようやく、自分を濡らしていたものの正体に気が付いた。
 手のひらにべっとりと貼り付く赤。錆びたにおいが一層濃くなる。淡いブラウンのフローリングにまだら状に広がる血の池に、僕は込み上げる吐き気を必死に押し殺した。
 助けを求めて視線を彷徨わせると、霞んだ視界の向こうに、床に倒れた父さんの姿を見つけた。グレーのシャツが赤く染まっている。父さんは動かない。
 手を伸ばして立ち上がろうとして、足首を強く引かれた。僕は床に腕をついたまま、後ろを振り向いて―――…
「――――っ!?」
 真っ白な手が、僕の足をつかんでいた。
 細い腕。その先にあったのは、ガラス玉みたいな瞳をこちらに向ける母さんの姿で。喉元からせりあがった叫びは音にならず、ただ掠れた息が漏れただけだった。
――逃がさないぞ
 背後から腕が伸びる。
――まて。奴らに君は渡さない
 腕に、首に、腕か絡まっていく。息が出来ない。
――バケモノめが!
――君の『力』が必要だ
――助けに来たの
――お前を排除する
 耳元でたくさんの声が反響する。地面から生える無数の腕は、ゆっくりと僕を呑み込もうとしていた。身体が重い。動けない。
「だれ、か、た……」

 その瞬間、世界が大きく揺れた。
 
 地響きと共に、景色がパラパラと剥がれ落ちてゆく。地面はまるで生き物のように大きく波打って、瞬きをする間もなく腕を弾き飛ばしていった。
 足元が崩れる。
 伸ばした手は虚しく宙を切った。声にならない叫びをあげながら、僕はそのまま、ぽっかりと口を開けた闇の中へと落ちて行き―――…



 今日もそこで目を覚ました。


         +++

 水の底から掬い上げられる様な感覚に、意識がゆっくりと浮上する。
 横たわった身体は激しい運動をした後みたいに怠かった。おまけに、思考のはっきりしない頭は鉛の塊でも入っているんじゃないかってくらい重くて……最悪だ。
 額に貼り付く前髪をかき上げながら、ゆっくりと目を開ける。最初に視界に入ったのは藍色の天井、そしてそこにぼんやりと浮かぶ蛍光灯だ。今が夜明け前なのか、それとも日没後なのかは時計を見ていないから正確にはわからないけど、外が少しだけ明るいからたぶん日没後だろう。この部屋の窓は、西向きのはずだから。
 肺の中に溜まった熱を吐き出して、僕は潰れてしまった枕の上から頭をずらした。寝ている間に随分と汗をかいたらしく、薄手の布地が肌に貼り付いて気持ち悪い。
 嫌な夢を見た。ここ最近殆ど毎日だ。
 原因はわかっている。襲われた時の恐怖と自分だけが助かったことへの後悔、そして……。
 バリエーションはいくつかあったけど、内容はどれもほぼ一緒だ。銃を突きつけられて、殺されそうになる寸前で何かに邪魔をされる。一旦助けられたとしても、今日みたいに大きな穴に落ちたり、腕に呑み込まれたり――――…早い話、気分が悪かった。
 最初のうちはかなりしんどくて、目が覚めたら泣いていた、なんてこともあったのだけど、あまりに続くもんだからいい加減慣れてしまった。ああ、またこの夢か。そう思うだけ。
 起き上がるような気分にはなれなかったので、僕はそのままの体制で部屋の中を見渡す。サイドテーブルに椅子、キャスター付きのチェストがひとつ。それ以外にこれといった特徴的な物はなく、さほど広くないはずの部屋は、やけにだだっ広く感じた。
 必要最低限のものしか置かれていない、殺風景な寝室。ここに連れて来られてから何日か経つけど、この景色には未だ慣れてない。


 陳腐な例えを使うなら、僕は「どこにでもいるごく普通の中学生」だった。
 朝起きれば学校に行って、退屈な授業や友達とのたわいのない会話で一日を過ごす。普通に部活動をして、普通にテストを受けて、家に帰れば、普通に家族が待っていた。
 そんな「普通」に溢れた僕の生活が「普通」じゃなくなるのはあっという間の出来事だった。積み上げたブロックのタワーがぐらりと揺れて崩れるように、呆気なく。

―――お前、『能力者』だな?

 あの日、学校から帰って来た僕を出迎えたのは、見たことのない男達だった。
 どこから嗅ぎ付けてきたのかはわからないけれど、「普通の中学生」である僕の中で、唯一「普通じゃない」部分を的確に指摘したその言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
 僕は自分の『能力』について、人に話した事は殆ど無い。両親だって知らないはずだ。ただ一人だけ――僕と「同じ」だと話していたクラスメイトにだけはこっそり打ち明けたけど、僕らみたいな人間がこの世界ではあまり歓迎されていない事はお互いに知っていたから、それをわざわざ他人に言い触らすなんてことはしないだろうと、勝手に信じていた。だから、こいつらが何で僕の「秘密」を知っているのか、僕には理解できなかったんだ。
 僕を『能力者』と呼ぶ男の手に握られていたのは、テレビやゲームの中でしか見たことのない真っ黒な銃だ。当たり前のように自分に向けられるそれを、僕は茫然と見上げるしか出来ない。
 男の背後を見やれば、彼の仲間に銃を突きつけられている両親の姿があって……。ああ、なんか人質みたいだな。そんな事をぼんやりと考える。僕に気付いた父さんが「レン、逃げろ」と叫んだのを、どこか遠いところで聞いていた。
 突如目の前に降ってきた「非日常」に、僕はその場から動くことが出来なかった。頭の中では危険信号が点滅しているのに、身体は石になった様に重い。そんな僕に、男は再び問う。

――お前、『能力者』だろう。

 返事がないのを肯定と取ったのか、男が獲物を見つけた肉食獣のように、にやりと笑った。

――我々は世界の安寧の為に、お前を排除する。

 それから後は、滅茶苦茶だった。
 行きかう罵声に甲高い銃の音。銃口が僕の方を向いて、大きな影に突き飛ばされる。気が付いたら父さんが倒れていた。
 叫ぶことも出来ずに震えていると、母さんの悲鳴。男たちが鬱陶しげに顔を顰める。銃を一発鳴らして黙らせた。
 相変わらず動けない僕に向かって男が何かを言う。怖かったから内容までははっきり覚えていないけど、気持ちのいい言葉じゃなかったんだと思う。こちらに近寄ってくるそいつを引き留めようとした母さんが、自分を捕えている男の手を振り払って駆け出そうとして―――…
 鳴り響く銃声。飛び散る赤。
 スローモーションのように倒れていく母さんの姿を見て、ようやく事態を理解した。……このままじゃ、殺される。
 頭の中でわんわんと鳴り響く警告音に急かされても、身体は一歩も動けない。床に染みこんでいく赤い色を、愕然とした気持ちで眺めていた。
 助けてくれる人はもういない。今度こそ終わりだ――――そう確信した時、その人は現れた。
 長い桃色の髪を翻して、僕の前に降り立つ女性。彼女が睨み付けた途端、これまで好き放題していた男達の表情が凍り付いた。
 何が起きたのか僕にはわからなかったけれど、どうやら身動きが取れないらしい。石のように固まった男たちを、彼女はバタバタとなぎ倒していく。
 最後に残ったのは僕を狙っていた男だった。地面に転がっていた銃を拾ったのだろう。女の人は、男が僕にしていたのと同じように、銃口をそいつに向けて―――――
 肩から血を流しながら、よくわからないことを叫んでいるその男を放置して、女の人が僕の前にしゃがみ込む。茫然と見上げる僕に、彼女は柔らかく笑いかけて。
 もう大丈夫―――…そんな事を、言われたような気がした。


 それから後のことは、実を言うとはっきりとは覚えていない。緊張が限界だったこともあってすぐに意識を手放してしまい、気が付いたらここに連れ込まれていた。混乱する頭の片隅で、僕を襲った奴らが例の――僕の秘密を唯一知っている、あのクラスメイトから僕の情報を得ていたことや、父さんと母さんの遺体を回収して埋葬したことなんかを聞いたけれど、その時の僕を支配していたのは大切なものを失ってしまった事への絶望感だけで、どんな言葉も耳を素通りするだけだった。
 本当は全部夢で、目が覚めたら自分のベッドの中だったらいいのにと、何度も思ったことか。勿論そんな奇跡なんてどこにもなくて、目を開けた僕を迎えるのはいつも、この天井と照明だった。
 気が遠くなるくらい長い溜息を吐くと、僕は明かりの灯っていない電球に自分の左手をかざす。
 こうしてみると、どこもおかしなところはない。歳の割に小さい気はするけれど、ごく普通の少年の掌だ。何も言わなければ、この手で僕が『力』を使うだなんて、たぶん、誰も気づかないだろう。


 最初に「記憶」が「視えた」のは、小学校の低学年の時だった。
 確かクラスメイトと喧嘩をしていたんだっけ。飛びかかって来たそいつを押し返しそうと、彼の額に手が触れた時、突然、頭の中に自分の知らない光景が流れ込んできたんだ。
 大好きだったペットの犬が眠ったまま動かない。心配になって撫でてみると、いつもはじんわり暖かいその身体が、冷蔵庫に入れたみたいに冷たかった――――
 よくよく考えてみれば、僕の家に犬なんていない。だけど、手に残る感触や胸の辺りをぎゅっと握り潰すような痛みは妙に現実的で、溢れ出る涙を止めることが出来なかった。その時の僕には、それが目の前にいる彼の記憶だなんて、思いもよらなかったから。周囲は喧嘩が原因で泣いているのだと思っていたから、とりわけ不審に思われることもなかった。
 それから後も、同じ様な事は何度かあった。
 自分の意思とは関係なく流れ込んでくる「他人の記憶」に気分が悪くなったけれど、それも暫くすれば慣れた。『力』のコントロールの仕方を覚え始めたのもその頃だ。
 『力』の事を隠していたのは、単純に自分が「普通じゃない」ことを知られるのが嫌だったからだ。僕の様に『能力』を使える人間は他にもいるし、幸いなことに僕の住んでいる都市はそういう人たちへの対応が寛容だったけど、実際どう思っているかは別の話だし。
 あの日のことは、今頃学校の皆にも知れ渡っているだろう。僕が『能力者』だったことを知って、彼らはいったいどう感じているのだろうか。……今更そんな事を気にしたって、どうにもならないのだけど。

 額の上にストンと手を落とし、目を瞑る。ここは静かだ。ビルの何階かまではわからないけれど、地上から随分と離れているせいで、車の音はもちろん通り過ぎる人達の話し声も聞こえやしない。次第に色を濃くする闇に溶けるように、このまま消えてしまえたらいいのに……。
 そんな静寂を破ったのは、控えめながらもしっかりとしたノックの音だった。答えるのも億劫だし今は人と顔を合わせたくなかったから、訪問者がそのまま立ち去ってくれるのをじっと待ってみたけれど、僕の願いに反して足音は一向に聞こえない。それどころか、扉は二度目のノックの後少しの沈黙を経て、音も立てずにゆっくりと開いた。
 この部屋に勝手に入ってくる人物の心当たりは二人。その姿を瞬時に脳内で並べ、ドアの隙間からのぞかせた顔を照らし合わせると―――…僕の不快指数は一気に急上昇した。
「――なんだ、起きていたのなら返事くらいはしたまえよ。わざわざノックまでしてやったというのに」
「……どうせ入るなって言っても入ってくるんだろ。なら答えなくたって一緒だ」
「ほう……生意気な口は相変わらずだな。気に入ったよ」
 鷹揚な口調で近寄って来る、青い髪を薄闇に溶け込ませた細身の男。やわらかな、でも少し癖のある微笑みを湛えたそいつは、当たり前のように僕の横たわるベッドの傍で足を止め、悠然と僕を見下ろした。よりにもよって、来て欲しくない方だったとは。
「……で、何しに来たんだよ?」
 問いかける声には自然と棘が混ざる。……僕はこいつが嫌いだ。初めて会った時から、この馬鹿にしたような喋り方も、鷹揚な態度も、何もかもが気に入らなかった。
「何をしに、か。それは勿論、君の様子を見に来たに決まっているだろう。聞くところによると、また食事を断ったそうじゃないか。月下美人≠ェ困っていたぞ?」
「……お前には関係ない」
「無くはないだろう。せっかく助け出した君に餓死でもされてしまったら、こちらの顔が立たない」
 男の方は、敵対心丸出しの僕の態度をこれっぽっちも気にしていないらしい。というか、寧ろ楽しんですらいる様に見える。それが更に気に入らない。
 不満や嫌悪感を込めた視線を軽く受け流し、そいつはサイドチェアに腰掛けると、ゆっくりと足を組んだ。どうやらしばらく居座るつもりらしい。
 今からどんな話を切り出されるのか。想像しただけでもげんなりする。向こうもある程度は予想していたらしく、男は僕の反応を見ても、軽く肩をすくめただけだった。
「……その様子だと、我々に協力してくれる気はまだ無いようだな」
 さして困ってなさそうな態度に、僕は一層顔をしかめる。
 彼の持ち出してくる気の滅入るような話。これが、僕の頭を悩ませる――そして、僕にあの悪夢を見せている、もう一つの要因なのだから。


         +++

「――自己紹介がまだだったな。私はここ『オラトリオ』の管理者の一人で、皆からはジョーカー≠ニ呼ばれている。何か必要なものがあったら遠慮なく言ってくれ。微力ながら力になろう」
 初めて顔を合わせた時、彼は僕に対してこう言った。
 『オラトリオ』が何のことなのかはともかく、ジョーカー≠ェ彼の本名ではないことは、すぐに分かった。単なる愛称なのかもしれないし、それとは別に、何か本名を言えない理由でもあったのかもしれない。けれど、他人に対して強く警戒していた僕にとって、彼の態度はただ不信感を募らせるだけだった。
 うさん臭くて気味の悪い男。それが、僕が彼に抱いた第一印象だ。
 ジョーカー≠ヘまず「怪我はないか」とか「君だけでも無事でよかった」なんていう当たり障りのない言葉をかけて、僕の様子を窺ってきた。
 あの時の僕は……なんというか、大分ヒステリックになっていたから、色々と騒ぎ立ててこいつを追い返そうとしたのだけど、彼は僕が何を言っても動じない。ニコニコと穏やかな微笑みを浮かべて、僕が落ち着くのを、ただ黙って待っていた。
 結局その日は、本当にただ様子を見に来ただけだったらしく、「ゆっくり休むといい」と言い残してすぐに出ていったのだけど。
 その二日後、再び彼が訪れた。
 彼は僕がいま何処にいるのか、どんな経緯で僕を助けたのかを簡単に説明して、最後に改まってこう言った。――力を貸してほしい、と。
 掻い摘んで話すと、彼は『能力者』を中心とした組織を率いていて、その活動に僕の『力』――人の記憶を読み取る能力が役に立つと見込んだらしいのだ。
 当然、僕は拒絶した。彼の話が信用出来ないのは勿論、まさにこの『力』のせいで、大切なものを失ったばかりなのだから。
 お前らの活動に興味はない。仲間を増やしたいのだったら、他を当たれ―――そんな事を言って誘いを断ったのだけど、こいつは思った以上にしつこい性格だったらしい。
 彼の『組織』に勧誘されるのは、これでもう三度目だ。


       +++

「何度来たって無駄だ。僕はお前らの仲間になんかならないし、この『力』を使う気もない」
 手の甲で視線を遮りながら吐き捨てる。このセリフも、いったい何度言った事か。そして、返ってくる言葉も。
「だが、今の君が一人で生きていくのは困難だぞ。元いた家に戻っても、いつあの時の様に襲われるかわからない。それに食事は? 洗濯は? 君が一人で出来ることなど、そう多くはないだろう。……ここに居れば、君の生活と身の安全は保障する。組織への活動も、直ぐには参加させない。――どうだ、悪くはない話だろう?」
 僕にとって不利な部分を的確に衝いて、尚且つ甘い蜜で自分たちの巣へと誘うような言葉。どれだけ反論しても、実際問題僕に一人で生きていく力なんてないから、最終的には首を縦に振るしかなくなるのだろう。……やり口が汚いんだ。
 本当に嫌だったら、こんな所なんて抜け出せばいい。住む家が無くても生きていく手段なんていくらでもあるんだ。僕と同じ様な歳でそんな生活をしている子供だって、この世界にはたくさんいる。
 それをしないのは、僕にそれだけの勇気と覚悟がないだけで。そして、こいつはそれを分かっていて、こんな事を言ってくるんだ。逃げ道を塞がれるって、こういうのを言うのかもしれない。
 正直僕は悩んでいる。いい加減こいつのしつこさに諦めが湧いてきたのもあるし、このまま同じやり取りを繰り返したって、状況は何も変わらないのだから。
 でも、彼の言う『組織』の目的はわからないことばかりだ。それに、僕はまだあの日のことを整理できていない。こんな『力』、本当はもう使いたくないんだ。
 僕の迷いを見透かしたように、男は眉を下げた。
「君の気持ちはわからなくはない。ご両親の事は本当に残念だったと思うよ。……だが、そのままでいいのか? 君はその『力』で君のような者を救いたいと、そうは思わないのか?」
 まるでそれが義務だとでもいう様な言い方。僕には、そうする以外に道は残されていないのだろうか。
「……何の役にも立たないよ、こんなもの」
 これからどうすればいいのかも決められず、そう返すだけで精いっぱいだった。



(中略)



パンッ――――!!
「いっ!?」
 合図と同時に、耳すれすれの所を何かが高速で飛び抜ける。その距離1センチに満たない。……一歩でも横に動いていたらどうなっていたか。想像して一気に血の気が引いた。
 驚いている間もなく、少女はこちらに向かって走り出す。反撃する余裕なんて一ミリも無い。俺は逃げるように右脇の棚の裏に駆け込んで、荷物の陰に身を潜めるしかなかった。追撃するように放たれた弾が俺のいた場所を正確に狙って、鉄骨を少しだけへこませた。
 バクバクと早鐘を打つ心臓を抑えながら、俺は棚に背を預けてゆっくりと息を吐き出す。開始からまだたった十数秒なのに、追い詰められた鼠の気分だ。始まる前にトイレによっとけばよかった、と場違いな後悔をしつつ、震える左手を握りしめた。
 どこか懐かしい感覚に、頭の隅にしまい込んだ記憶が蓋をこじ開けて溢れ出す。あの時とは状況も心構えも違うのに、首の裏に貼り付くような緊張感にぞっとする。訓練用だから殺傷能力は無いはずなのに……割と本気で、殺されるかと思った。
 湧き上がってくる恐怖を頭を振って吹き飛ばす。こんなところで呑み込まれてちゃだめだ! グズグズしてたら、マジで命が危ない!
 なるべく姿を出さないようにして、段ボールの隙間からそっと様子をうかがってみると、少女は銃を構えたままじっとこちらを睨んでいた。少女の側に動く気配はない。それを確認して、俺は小さく息を吐いた。
 とりあえず、位置の確認だけでもしておこう。
 今俺が隠れているのはKブロック、出入り口に一番近いところだ。そして向かわなきゃいけないBブロックは部屋の一番奥。真ん中に出て直進するにしても、ここから壁伝いにぐるりと回っていくにしてもちょっと距離がある。ましてや目の前ではあの子が待ち構えているんだ。……たどり着けるのか、俺?
 ごくりと唾を飲み込む。こうしている間にも時間は過ぎてくっていうのに、対策が何も思い浮かばない。
「いつまで隠れているつもり? そこでじっとしていたって時間の無駄よ」
 焦り始めた俺とは対照的な余裕たっぷりのその言葉に、なけなしのプライドが音を立てて崩れ落ちた。
「うるさいな! 今どうすりゃいいのか真剣に考えているんだよ!」
「1分待ったわ。反撃する気がないのなら、こちらから行くわよ?」
「なっ……!」
 言い返す暇なんて無かった。息を殺して獲物の動きを探っていたチーターさながらに、一直線にこちらへと向かってくるその姿を視界の端でとらえた瞬間、俺は反射的に駆け出していた。
 ……ちくしょう、どうすりゃいいんだよ!
 棚を挟んで横並びになりながら、懸命に逃げる。走る速さはほぼ互角。無造作に押し込まれた荷物が壁になって、向こうも無理に撃ってこようとはしないけれど、問題はこの「壁」がなくなった瞬間だ。
 覚悟を決めて飛び出す――と、足元で銃弾が跳ねた。当たってはいないけど、縺れた足はたたらを踏んで、完全にバランスを失う。そこにまた一発。
「――――っ!」
 倒れそうになる身体を何とかもち直して、隣のブロックに潜り込むことには成功したけど、それで彼女からの追撃がやむわけじゃない。
「どうしたの。もう終わり?」
「んなわけあるか!」
 頭の中はもう真っ白だ。さっきので十分理解した。少しでも顔を出そうものなら、彼女は容赦なく俺を狙って撃ってくる。下手に突っ込むと逆に危ない。
 だからと言って、いつまでもここで追いかけっこしているわけにもいかない。早いとこBブロックに近付かないと、本気で間に合わなくなる……!
「っ――おわっ!?」
 少しペースを上げて奥まで駆け抜け、タイミングを見計らって少女の前を横切ろうとすると、鼻先をかすめる高速の弾。慌てて踏みとどまり、踵を返す。……ちくしょう、これじゃあ埒が明かない!
 こっちがこんなに必死になってるってのに、おそらく彼女は手加減している。あれだけの腕を持ちながら、まだ俺に一発も当てていないのがいい証拠だ。本気で攻撃されてたら、多分最初の一発目でやられてた。
 ……悔しいけれど、今はそんな事に気を囚われている暇なんかない。唇をかみしめながら、俺は前を向いた。
 彼女相手に正面突破は難しい。というか無理だ。ということは、こうやって棚の陰に隠れながら攻撃を掻い潜って、反対側に回るしか方法はない。――三秒。たった三秒、彼女からの攻撃をかわせばいいんだ。それがこんなにも難しいなんて……。