水圧カリギュレイト



 幕府が倒れて何十年…時は明治のとある場所。
 武士と呼ばれる存在が、街にいたのは疾うに昔。長い鎖国も既に開け、街に溢れるは様々な人。西からの風が吹きあれて、今や流れる新しい時代。
 その流れに乗るか乗らぬか。はたまた乗れないだけなのか。様々な人が存在し、日々生活していくこのお国。そんなものは知らぬとばかり、華やかな話がそこかしこ。囁かれるのは女学校。
 さて今日も今日とて大人気。話題を攫っていく存在と言えば、ある一人の少女である。
「まぁ!またりんさまってばそんなことをなさったの?」
「流石というべきか…もう何も言えませんわね」
「それで?お相手の方は?」
 とある女学校の教室で、時間は授業も全て終えた放課後。矢絣の着物に海老茶色の袴を纏い、足元には最近入ってきたばかりのブーツ。頭には大きなリボン飾り。今流行の「はいからさん」が犇めくこの教室。帰り支度もそっちのけにそんな彼女たちが夢中なのは、もちろん勉強などではない。
 少女たちが夢中なもの、それはいつの時代も変わらず同じだ。例え周りが違っていても、どこでも咲く恋のお話である。
ただし少し異なるのは、その恋が可愛らしいだけではないこと、であろうか。
 楽しげに顔を寄せて囁き合う少女たちを後ろから眺めながら、話の輪に入らずにいた人影がひとつ。その人影は一度溜息をついてから、ゆっくりと口を開いた。
「私は酷いことばかりしている訳ではありませんのよ?」
「「「りんさま!」」」
 少女たちは後ろから突然聞こえてきた声に大慌てで振り向く。そしてその声の主の姿を大きな瞳に入れて、少女たちは歓声に近い声を上げた。
 その声の主とは先程から噂の元であった人物、咲音りんであった。


・・・・・・


 純粋に、色々な物を学べる女学校は楽しいし、集う少女たちも可愛らしいと思う。しかし、どうにも話は合わないというか…りんには彼女たちが掴めないのだ。
 彼女たちはお嬢様の中のお嬢様。自分の身の上と比べても、同じ目線でなんて無理な話なのだろう。
 そうつらつらと考え事をしながら道を歩いていると、いつのまにかりんの周りは人の波であふれていた。此処は様々なお店、芝居小屋などが立ち並ぶこの街の中で最も賑やかな通りである。無意識に此方の方へ足が向いてしまったのであろう。
 これが逃避ってものかしら。一人苦笑していると、人ごみから伝わってくる何かしらの不穏な空気をりんは感じ取った。
 人と人との隙間からりんに見えたのはきらりと輝く金の糸。そして耳に入った誰かの台詞。
「…にまで異人がきやがって!」
「この国を謀ろうとする奴め!」
「…」
 その言葉を認識した瞬間、りんは思わず走り出した。そして器用に人ごみの間を通り抜け、あっという間に渦中の最前線へと辿り着く。
 そこにいたのはやはりというべきか。先の台詞を吐いたのであろう数人の男たち。そして金の髪に青い瞳を持った、一目でこの国の者ではないと読み取れる容姿の青年が一人。
 りんと非常によく似た色合いを持つ人が、そこにはいた。
 事の発端は、その青年がどうやら男たちへぶつかってしまったことのようだ。彼らの周りには青年の持ち物であろう荷物が散乱し、拾い集めることに真剣な青年。そして誰一人として手伝おうとしない周囲の人々。


 嗚呼腹立たしい。りんは胸中で呟いた。
「落とされた荷物を目の前にして拾おうとしないなんて、随分と最低な方々ですわね?」


・・・・・・


「本当にタスカッタ。ワタシはレン・ミーリック。ソトからついサッキ此処へ着いたばかりデス。アリガトウ、オジョウサン」
 優しそうな笑顔を浮かべ、りんへと手を差し出す青年、レン。感謝の言葉にはとても感情がこもっていて、りんは思わずくすりとほほ笑んだ。
 彼はどうやら嫌な人ではなさそうだ。騙されたと知って残っていた感情はここでとうとう消え去っていた。


「ソンナオジョウサンに、ツイデニ聞きたいことがあるんデス…」
「ついで、だなんて。よくこの国の言葉を御存じですわね。まぁ、時間に急いではいませんし。何でしょう?」
 照れ隠しにツンと口を尖らしつつもちろりとレンへと視線を送るりん。
 その様子にレンは安心したようにほほ笑んで、シャツの胸ポケットから小さくたたまれた紙を取りだし此方へと差し出した。
「アリガトウ。エエト、ココに行きたいのだけれど…」
 レンから差し出された紙を受け取りゆっくりと開く。そしてりんはぱちくりと目を瞬いた。
 この街の大まかな地図と共に大きくあちらの国の言葉で書かれていたのは、りんの最もよく知る場所の住所。書かれた道筋は、今ちょうどりんが帰ろうと思っていた道そのまま。
「シッテル家デね、これのとおり行けバわかると聞いたのデス。でも、…どうも迷ってシマッタみたいで」
「…お知り合い、ですか」
「Yes!…ええと、モシカシテこれが間違えていル?」
 まじまじと紙を見つめた後、紙とレンを交互に何度も見比べるりん。その様子にレンの顔はどんどん不安そうに変化していき、恐る恐るりんの持つ紙を覗き込んだ。
 そこでレンの様子に気づいたりんは、数秒間地図を見つめた後安心させるようににっこりと笑み口を開いた。
「いえいえ、問題は全くありません。ご案内いたしますわ」
「oh!! シッテいるのかい?」
「知っているも何も…」
 紙に視線を戻し、ようく確認してからレンへと顔を向ける。そうしてキョトンとこちらをみつめるレンへ、りんは悪戯っ子のような笑みを浮かべ口を開いた。
「私の家です。その場所」
「…!?」
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたわ」
 レンがあまりにも驚いた様子をするので、りんは苦笑を零した。
 確かに、両親をしっている人からみれば、自分の存在は謎以外のなにものでもないだろう。
 慣れ切ってしまった他人の驚いた表情。それとともに襲い来るのはちいさな痛み。ここまで来てしまえばもはや一番の友達であるかのような、そんな痛みに気づかないふりをして。りんはにこりと微笑した。
 どんなに願っても、悲しんでも。結局は何も変わらない。それでもしがみ付くしかできないの。
 一番初めの、風呂敷包みを投げた少女とは同一人物だとは思えないような儚げな笑みを浮かべるりんに、レンは無意識に息を飲み込んだ。
「咲音りん、と申します。どうぞ宜しくお願いします。」