泡沫の足跡



『行ってらっしゃい』
 微笑みながら告げられた言葉に、一瞬なにを言われたのか理解できなかった。その意味を問う前に思い切り身体を押され、予想していなかった事態に身体は対応できず、ゆっくりと下へと落ちる。
 落ち行くことへの恐怖と相手がした行為への疑問を抱え、目の前に佇む人物を見れば、先ほどと変わらない笑みを浮かべていた。
『全部回るまで帰ってきたら駄目よ。――もし、そんなことをしたらどうなるかわかっているわよね?』
 後半の言葉にかかった圧力に、別の恐怖を覚えながらも最後の抵抗とばかりに声を張り上げる。
『姉上の馬鹿ああああああっ!!』



 勢いよく目を開けると最初に視界に入ったのは青い空と心配そうに覗き込む少女――リンの顔で、レンは緩慢な動作で起き上がるとあたりを確認する。そしてここが街道から少し離れた場所で、今まで木の下で寝ていたことを思い出す。
「なんだ、夢か……」
 息をつきながら胸に手を当てると、動悸をしていることを感じ取り、レンはそれを鎮めるために数回深呼吸を繰り返す。あの夢を見ると起きたあと必ず動悸していて、いまだに身体がその時の恐怖を忘れていないのだと実感させられる。きっと当分の間はこの夢に苦しめられることになるだろう。
「おはよう、レン。またあの日の夢を見たの?」
 リンの問いかけにレンは苦笑を浮かべ、それを肯定と受け取った彼女はなにも言わずに水の入った容器をレンに差し出す。
「ありがとう」
 筒状の容器を受け取り中に入っていた水を呷ると、乾いていた喉が潤っていくのを感じ、身体が水分を欲していたことを知る。
 何度も夢に出てくるほど忘れることのできないあの日、レンはいつものように自室で勉学に励んでいた。その日に定めた目標の量に達するあと少しのところで姉に呼び出され、大人しくバルコニーに向かったが、今思えばそれは間違えだったかもしれない。そこでなんの用かと訊いたが答えはもらえずに、それどころか唐突になんの脈絡もなく姉に送り出しの言葉をいただき、強制的に――バルコニーから落とすという手段を用いて――屋敷から追い出されたのだ。
 いくらなんでもバルコニーから落とすことはないだろう。もし死んだらどうするつもりなのか姉に尋ねたいくらいだが、あの計算高い彼女がそんな失敗をするとは思えない。実際レンが落ちたところは木の上で、多少の痛みはあったものの大きな怪我はなかった。そこから降りれば纏められていた荷物とリンが待機していて、姉の用意周到さに愕然とした。

 レンの住むマオナ領はエテルネル国の一部で、レンの生家は国を統治する王に管理を任された領主の役を賜っている。管理の仕方については一切言われていないため、レンの父は領地を区分して、それぞれの区の代表を決めて管理する方針を取った。レンの家でもひとつの区を管理しているが、他の区の代表が私利私欲の深い者になったら自分の好きなように管理する事態を避けるべく、代表たちには内密に年に一度視察に行くことになっている。
 それは領主が直々に赴くことになっていて、領主だった父は数年前に亡くなっているので、次期領主のレンに白羽の矢が立った。視察の件を聞いた時はまだ幼いからとの理由で、レンの代わりに領主代理を務めている姉が行くべきだったのではないかと今でも思っている。
「大体姉上はいつもやることが乱暴なんだよ。視察に行ってこいってだけで、人をバルコニーから落さないよね、普通」
「レンが嫌だって駄々をこねるって思ったからじゃないかな?」
「うっ……」
 それに関しては否定できないレンは思わず言葉が詰まる。レンの行動を予測した上であの行為に及んだのなら、一生姉に勝てる日はこないような気がする。
「リンは嫌じゃなかったのか? 家から追い出されたも同然なんだよ?」
「私はレンと一緒ならどこでもいいよ」
 その言葉はお世辞ではなく、リンの心からの言葉だとわかっているレンはそれ以上追及することができずに黙り込む――訊かなくともリンの返答はひとつしかないのだ。
 マオナ領は他の領と比べると治安は高い方だが、それでも街道に出れば野党に襲われる可能性があるので、身を守るための武器は旅に欠かすことのできない物のひとつとなっている。
 その剣の腕はお世辞にもレンは高いとは言えず、情けないことに自分よりふたつ年下のリンの方が上で。年下の女の子に負けることは男としてどうなのかと思うが、天賦の才を持っているリンに敵うはずもなく、自分なりに頑張るしかないと諦めの境地に足を踏み入れたのは随分前のことだった。
「――そろそろ行こうか」
「うん!」
 容器を荷物の中に入れ、少しだけ重たくなった腰を上げると街道に沿って歩き出す。目的の町まであと少しだ。


 歩き始めて一時間ほどでヤーデ区にある目的の町に到着した。ヤーデ区にあるこの町はマオナ領の中で二番目に規模の大きい町だと聞いていたが、まさにその通りでレンの住んでいる町を彷彿させる。行き交う人も多く、道端には露店が出ていて思わず目移りしてしまうが、町に着いたら真っ先にしなければいけないことがある。
「よし、まずは宿を確保しよう」
「レン、見て見て! あそこに看板があるよ」
 リンが指差した先には壁にぶら下がっている看板があり、白い文字で宿屋と書かれていた。これだけ人が多ければ満室の可能性が高いが、大きい町だからこの宿の他にも別の宿があるはずだ。宿を確保することを最優先としているので、宿代や食事の美味云々は気にしないことにしている――町中で野宿するほど寂しいものはないことを、レンはこの旅を以て理解していた。
 最初に入った宿は残念なことに僅かな差で満室になったことを女将の口から告げられ、他にある宿の場所を聞いてその場をあとにした。表通りを歩いていると道に沿って開いている露店につい目が行ってしまうが、そのたびに視線を戻して足を動かすことに集中する。
 露店を見て回りたければ先に宿を確保してからくればいいだけのことで、ついでにこの区の情勢についていろんな人から聞いておきたい。
「レン!」
 代表の許にも訪ねた方がいいだろうかと思案していると背後からリンの呼ぶ声が聞こえ、それが注意を促すものだと気づいた時には前方にいた少女と衝突する。
 レンより小柄だった少女は衝突の衝撃に耐えきれずに倒れそうになるが、咄嗟にレンが少女の手を掴んだことで倒れるという事態は避けることができた。掴まれた少女はまだ状況が理解できていないようで唖然としていて、その間にレンは怪我がないかを確認する。前方が不注意だったために少女と衝突してしまったので、怪我をしていたら非常に申し訳なかったのだが、怪我をしているところは見られずそっと胸を撫で下ろす。
「ぶつかってごめん。大丈夫?」
「あっ、は、はい。ありがとうございます」
 礼を述べる少女はレンと同じ金髪に碧眼を持つ綺麗な容姿をしていて、彼女の仕草のひとつひとつに品位を感じる。どこかの令嬢かと推測していると、少女から訝しげな視線を向けられ、レンは慌てて手を離す。
「す、すみません」
 いつまでも掴んでいては怪しまれて当然のことで、なにか弁解をするべきかと頭を働かせていると、後ろにいたリンが口を開く。
「レンはあなたに危害を加えるような人じゃないから大丈夫だよ。それよりどこか怪我はない?」
「大丈夫です。助けてもらったので倒れることもありませんでした。こちらの不注意でぶつかってすみません」
 深く頭を下げて謝る動作も思わず見惚れてしまうもので、レンの中の令嬢説が強くなる。この区についてはあまり知らないがこれだけ大きな町なのだから令嬢のひとりやふたりいても不思議ではない。
「僕の方こそごめんね。ちゃんと前を見ていなかったから……」
「いえ、私の方こそちゃんと前を見ていなかったので……」
 互いに自分が悪いと言って引かない謝り合戦に、このまま放置したら当分の間続くと判断したリンは話題を逸らすことにした。
「あなた、この町の子だよね?」
「はい。そうですけど……」
「よかったら知っている宿を教えてくれないかな? 私たち、今この町にきたばかりで地理がまだよくわかってないんだ」
 リンの申し出に少女は逡巡したあと小さく頷いた。どんな宿がいいのかと尋ねられ、特に希望がないと言えば困らせることは目に見えていたので、安くてご飯がおいしいところがいいと無難な回答をする。
「……わかりました。ひとつ宛てがあるのでそこに案内しますね」
「ありがとう! えっと……」
 今更名前を訊いていなかったことに気づき、言葉を詰まらせるレンに少女は笑みを漏らす。
「レンカと言います」
「レンと名前が似てるね」
 似ているというより一文字多いなのだが、ありふれた名前だから驚くほどでのことではなく――それにレンは愛称で、本当の名前は少し長いが今はその名を名乗ることはない。
「それじゃあ、レンカちゃん。案内よろしくお願いします」